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世界遺産 韮山反射炉と当時の大砲製造技術

世界遺産 韮山反射炉

 

世界文化遺産 明治日本の産業革命遺産 韮山反射炉へ行ってきました。

 

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  図1:韮山反射炉外観、鋳台方向から撮影

 

韮山反射炉築造の歴史的背景

 

 1850年代、黒船の来航をきっかけに、西欧列強に対して自国を守るべく海防体制の強化が緊急の課題であることが明らかとなった。日本列島は島国であるため、外敵がやってくるとすればそれは必然的に海からくることとなる。しかし、既に大名が天下の覇を競った戦国の世は遠く、江戸250年の泰平を謳歌していた日本には、列強の黒船に対抗するだけの技術力が存在しなかった。

 当時の日本の大砲は戦国末期~江戸初期でその進化を止めており、西洋の最新の大砲と比較して、射程、威力ともに天と地ほどの差があった。このため、まずは西洋の技術を習得し、西洋式の大砲を製造、配備することで日本進出を狙う列強に対抗しようという目的で築造されたのがこの韮山反射炉である。*1

 

 

反射炉の仕組み

 

 反射炉とは、金属を溶かすための溶解炉の一種であり、17~18世紀にかけて欧州で発達した。現代では、鉄の精錬には転炉が用いられているが、銅やアルミニウムの精錬に反射炉が用いられているとのこと。余談だが、反射炉は銑鉄を材料に用いて精錬を行うための炉であり、高炉は鉄鉱石を熱処理し、銑鉄を取り出すための炉である。

 反射炉の構造は、その名の通り、熱を反射させ、材料を溶かすようになっている。石炭等を燃料とし、発生した熱を炉の天井で「反射」させ、材料に熱を集中させることで、材料の融解に必要な高温を得る。*2

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  図2:反射炉模式図

  1. 燃料から発生した熱は炉の天井に反射し、銑鉄へと集中する
  2. 融けた鉄は出湯口から取り出され、鋳型へと導かれる

 

 韮山反射炉築造当時においては高温を測定できるセンサなどは存在しなかったために、炉の稼働は融解鉄の色を判断しやすい夜間に行われた。燃料は石炭や木炭などを利用していたようである。また、耐火服なども当然存在しなかったため、作業者は褌1枚を身に着けたのみで作業に当たっていた。これは、高温の融解鉄等が服に付着すると、肌に直接触れるよりも重症化しやすいためであった。

 

 

 

当時の大砲製造法

 

 当時の前装式砲は反射炉で融かした鉄を鋳型で型どりし、その後中心部を旋盤でくりぬく方法で製造されていた。大砲の製造法の進化として、初期のころは鍛造による製造、時代が下り、大口径が求められるようになると鋳造による製造へと変化していった。韮山反射炉で行われていたのは鋳造による大砲の製造である。鋳造による大砲の製造は、鋳造時に鋳型に中子を仕込みそのまま完成とする方法、中子により空いた穴を旋盤加工により一定の口径に仕上げたのち完成とする方法、中子なしで砲身を鋳造し、穴あけから旋盤加工を行い仕上げる方法がある。当然のことながら、並べた順が時代順である。

 鋳造時に中子を仕込みそのまま完成とする方法では、中子を鋳型の中心に完全に固定しておくことが事実上不可能であり、砲身の肉厚にバラつきができてしまう。また、中子の寸法により口径が決定されるが、全く同じ中子を使いまわしできない以上、大砲の口径にはばらつきがあり、発射する砲弾は口径に対して小さめにならざるを得なく、砲身と砲弾の隙間から火薬の燃焼ガスが漏れるといった弊害があった。

 ルネサンス時代になると、この中子で開けておいた穴を水力旋盤等で中ぐりして広げ、ある程度一定の口径を得ることができていたようである。しかし、この方法では鋳造時の中子のずれに起因する砲身の肉厚の不均一は依然として解決されていなかった。

 この問題が解決されたのは1750年頃になってからである。スイス人の大砲技師ジャン・マリッツは砲身を中身の詰まった1本の塊として鋳造し、その後砲口を開けることで、砲口の位置は砲身に対して正確に中央に位置し、360度均一な厚みを持つ砲身を製造することに成功した。また、中身の詰まった金属塊を鋳造することは、砲身の材料強度に対しても好影響をもたらした。鋳造において鋳型に流し込まれた金属は外側から冷えて固まっていくが、この時、より低融点の不純物は中心部にたまる傾向がある。以前の中子法では砲身に不純物の多い弱い個所が発生することは防ぐことができなかったが、この方法では不純物を中心部に集めたのち中ぐりにより取り除くことで、均質な材質の砲身を製造することが可能になったのである。*3

 

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 図3:韮山反射炉では反射炉へ投入する前にたたら場で1度融かして形状を整えた*4

 

 

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  図4:融解工程。反射炉で融かされた鉄は鋳型(縦型)へ流し込まれる*5

 

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  図5:穴あけ工程の流れ。削り屑の重量は砲身と同じかそれ以上だったとか*6

 

 韮山反射炉(およびその付随施設)では中子法でも大砲の製造がおこなわれていたが、主としてマリッツの中ぐり法が用いられていた。旋盤の動力となったのは、すぐ隣を流れる韮山古川の水力である。完成ののち、何発か試射をして引き渡しとなった。

 

 日本製洋式砲の製造に大きな役割を果たした韮山反射炉ではあるが、実験炉、試作炉としての性格が強かったのか、1857年の竣工からわずか7年後の1864年を最後に大砲の製造は中止された。

 

 

 

 

 参考文献

[1]伊豆の国市観光文化部世界遺産化(2017),韮山反射炉パンフレット

[2]W.H.マクニール(2014)『戦争の世界史(上)ー技術と軍隊と社会』高橋均訳,中央公論新社

[3]橋本毅彦(2013-2014)『「ものづくり」の科学史ー世界を変えた《標準革命》』講談社

[4]韮山反射炉ガイダンスセンター内掲示資料

 

 

 

 

 

*1:[1]伊豆の国市観光文化部世界遺産化(2017),韮山反射炉パンフレット

*2:[1]伊豆の国市観光文化部世界遺産化(2017),韮山反射炉パンフレット

*3:[2]W.H.マクニール(2014)『戦争の世界史(上)ー技術と軍隊と社会』高橋均訳,中央公論新社

[3]橋本毅彦(2013-2014)『「ものづくり」の科学史ー世界を変えた《標準革命》』講談社

*4:[4]韮山反射炉ガイダンスセンター内掲示資料

*5:[4]韮山反射炉ガイダンスセンター内掲示資料

*6:[4]韮山反射炉ガイダンスセンター内掲示資料